鬱病になったコメディアンが語る、周囲の共感と理解の重要性



Sahil Shah

鬱病にはうんざりしている。

自分と同年齢や年下の者が鬱病に苦しんでいるのを見るのはもうたくさんだ。「次なる大ブーム」であるかのように、鬱病が話題にされているのも嫌になる。

鬱病はそういうものではない。

鬱病は、愉快なものでも、カッコいいものでもない。鬱病は鬱病。一種の病気、それも流行している病気だ。

鬱病は恐ろしいルームメイトであり、頭の中でたえず本人に語りかける声だ。自分は失敗作だ、何をやってもうまくいかない、人生は無慈悲で、欠陥や失敗を次々と提供しながらそれらへの対処方法を決して教えてくれないと、その声は言う。

「でも、サヒール。なぜそんな話をしているんだ? 君はコメディアンだ。いつもハッピーじゃないか。鬱病からどんな影響があるっていうんだ?」と読者は言うだろう。

鬱病は私に影響を与えている。私は鬱病を体験してきたのだ。5か月前、私の生活は悪循環を起こして手に負えない状況になった。何をしても無意味だと思った。睡眠時間が増え、出かけることが減り、友人や家族を無視し、ついには、自分だけの孤独な世界に引きこもるようになった。

最悪なのは、誰にも話せないと思ったことだ。こう笑い飛ばされるのが怖かったのだ。

「ハハハ、ナイスジョークだ、サヒール! 舞台でのネタにすべきだよ!」

鬱病に面白い点など何もない。

悲しいときには、泣けば気分が良くなるものだ。だが、鬱病に罹っていると、泣きながら、自分は何で泣いているのだろうと考え、泣いている自分を嫌悪する。そしてもっと泣く。何も感じない日もあれば、自分の手に負えない気分になる日もある。

シートベルトで体を自転車に固定されたまま、自分の涙で滑りやすくなった下り坂を転がり落ちていくような感じだ。

仕事に行こうと通りを歩いていて、自分が泣いているのに気づく状況を想像できるだろうか?

タクシー運転手に乗車拒否されたわけでもないし、誰かが近づいてきて「おい、ブサイク野郎!」と言って走り去ったわけでもない。ただ、泣けてくるのだ。理由なんてない。説明しようがない。

「おいおい。サヒール、君が泣くんだって? 冗談だろ」

私はたくさん泣いてきた。床に寝転がって、再び心からの笑みを浮かべる日が来るだろうか、とかなり真剣に考えていた。朝に服を着た後、仮面をつけて幸せを装う気分だった。悲しみを隠し、全世界に対して、自分は偉大な人物だと見せかけていた。

ある日、いつものように幸せな振りができないほどの疲労感を覚え、どうにかしようと決意した。勇気を出して助けを請い、友人と家族に協力を求めたのだ。

自分の現状について率直に話し始めてすぐに、友人も似たような問題を抱えているのがわかった。私たちは互いに相手の前で泣いた。それから、いっしょに笑い、さらに泣いた。世界で最高の気分だった。

ようやく、悪化していたすべてのことに取り組む方法を見つけたのだ――話すことで。

「それで、君はただ悲しかったの? 私は悲しみから抜け出したよ。誰でも悲しみから抜け出せるんだ!」

悲しみと鬱病は別物だ。鬱病は、ただ気分が優れない日というわけではなく、振り払えない。命を奪うものなのだ。

インドのムンバイで自殺した学生の記事を読んで、こう思った。「くそっ、鬱病にやられたんだ」

学生は24歳で、人生はまだまだこれからだった。何かを達成し、間違いを犯し、人々に出会う未来が待っていた。自殺の兆候に誰かが気づきさえすれば。話をしようと誰かが誘っていれば。誰かが彼を医者に連れて行ったり、診断を下したり、必要な支援を与えていたりさえすれば。

「でも、サヒール! 彼は鬱と闘うことだってできただろう?」

いや、無理だ。鬱病との闘いが常に最悪なのは、そもそも他の誰かと闘っているわけではないからだ。闘っている相手は自分自身だ。

唯一の対抗策は、理解されている、気に掛けてもらっている、他の病気の場合と同じように、プロに助けてもらっている、と感じることだ。

鬱病は病気だが、残念ながら人は、鬱病に対応するのが得意ではない。

不安や鬱病に苦しむ学生を対象とする多くの支援活動を見たのだが、いくつかのミーム専用ページが、自殺した学生についてのミームを作成しているのも目にした。コメントを読むのは心苦しかった。亡くなった友人にタグを付けてジョークにしているのだ。

鬱病の人たちは、世界を覗いたとき、ナイフを持った見知らぬ他人ではなく、自分を受け入れてくれる広げられた両手を見る必要がある。

「では、どうすれば鬱病から抜け出せるのか?」

答えは人それぞれだが、最初の一歩は決断することだ。

気持ちを楽にしたくなると、私は座って、自分の人生を評価し、積極的に受け入れるようにした。現状を受け入れ、ありのままの自分を受け入れた。自分に関することを受け入れ、自分が犯した過ちまで受け入れようとした。

いくつかの引き金も突き止めた。

職業柄、私は常に人の面前にいないと忘れられる恐れがある。それに、たえずソーシャルメディアを利用しなければならない。

だが、自分が本当はソーシャルメディアを嫌っていることに気づいた。ソーシャルメディアは毎日、自分が取るに足りない役立たずな存在だと感じさせる。ソーシャルメディアは、他の人々の幸せをしょっちゅう垣間見せ、他の人々のほうがたくさんのことをやっていたり、うまくやっていたりすることを常に思い出させる。そして、自分の成功や喜びは不十分だと絶え間なく感じさせる。

いちばん孤独なのは友人がいない者だ、とかつては思っていた。だが、Facebookのある今、いちばん孤独なのは、友人があまりにも多すぎる者かもしれない。



Source link

Leave your vote

0 points
Upvote Downvote

Total votes: 0

Upvotes: 0

Upvotes percentage: 0.000000%

Downvotes: 0

Downvotes percentage: 0.000000%

What's Your Reaction?

Cry Cry
0
Cry
Cute Cute
0
Cute
Damn Damn
0
Damn
Dislike Dislike
0
Dislike
Like Like
0
Like
Lol Lol
0
Lol
Love Love
0
Love
Win Win
0
Win
WTF WTF
0
WTF

鬱病になったコメディアンが語る、周囲の共感と理解の重要性

log in

Become a part of our community!

reset password

Back to
log in

Hey there!

or

Forgot password?

Forgot your password?

Enter your account data and we will send you a link to reset your password.

Your password reset link appears to be invalid or expired.

Close
of

Processing files…

Choose A Format
Gif
GIF format